2012年09月20日

『ご家老様の贋札』執筆記(その11) 歴史編(8)〜こうとしか生きようのない人生がある〜

 長らくお付き合いいただきました福岡藩贋札事件・歴史編ですが今回で最後です。本件を語る際に外せない人物がまだ一人。西郷隆盛です。言わずと知れた明治維新の主役がここにちょっとだけ顔を出します。
 西郷隆盛を知らない人も少なかろうと思いますが一応説明。薩長同盟・王政復古・戊辰戦争と倒幕を主導した薩摩藩士で、明治政府にも参画して陸軍大将となるも征韓論を巡って内治優先派と対立して下野、鹿児島に帰って不平士族と共に西南戦争を起こし政府軍に敗れて散華した人物です。
 戊辰戦争を明治元年(1868年)秋の東北戦争終結まで戦った西郷は鹿児島へ帰り、休息と藩政改革に努めました。上京して国政に参与するのは明治4年(1871年)1月のこと。福岡藩贋札事件の摘発は明治3年(1870年)7月ですから、西郷が鹿児島藩で参事を務めていた時期です。
 弾正台による贋札製造の摘発を受けた福岡藩藩主は元家老・矢野梅庵……渦中の大参事・矢野安雄の父親ですね……を急遽鹿児島へ派遣して西郷隆盛に救援を乞います
 梅庵が福岡藩勤皇派の生き残りで西郷隆盛とも親交があったという理由もあるのですが、嘉永2年の(1849年)の薩摩藩のお家騒動「お由羅騒動」にあたって筑前藩は島津斉彬の家督相続に協力しており、斉彬派であった西郷は福岡藩主に恩義を感じていたという縁があったのです。
 矢野梅庵と共に小倉(贋札事件の捜査本部が置かれていた)へ駆け付けた西郷隆盛は事件の担当者である弾正台大忠・渡邊昇と面会し、福岡藩に対する寛大な処置を求めますがあまりに状況が悪すぎたのか成果は得られませんでした
 私片羽が『ご家老様の贋札』を書き出すにあたって一つ取っ付きやすさを感じた、もっと言えばコンクール出品作としての勝算を立てたのがこの西郷隆盛の登場でした。なんせ一般に認知度の低い福岡藩贋札事件において数少ない全国区の有名人です。さらに財政難に苦しんで贋札を作った福岡藩士と、この後士族の処遇に腐心した挙句に西南戦争を起こして散る西郷隆盛の運命にも通じるものがあります。
 よって拙作では倒幕を成し遂げた少し後の西郷が福岡藩贋札事件を通して武士階級の行く末、そして自身の破滅的な蜂起までを予見するという描き方としました。これで作品が引き締まりました。

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 ここまで長々と福岡の幕末史を語らせていただきました。退屈だったかも知れませんが拙作を語る上でどうしても外せないパーツでしたのでご了承いただきたく。
 総括しますと幕末に勤皇派を弾圧して殺してしまった時点でその後の福岡藩の運命は変えがたいものになっていました。不透明な情勢と財政難の中で先任者が勤皇派も佐幕派も次々と消されて仕方なく藩政を引き継ぎ、そして贋札事件で処刑されてしまう矢野安雄ら若き藩幹部たち。藩と己の行く末をある程度予見しながら与えられた役目を果たしていたのでしょう。
 では暗いばかりの明治3年の春だったのか。いや、もしかしたら贋札製造という仕事に、それが己の存在証明であるかのように真摯に取り組んでいたのではないか。贋札が上手く出来た瞬間には喜びすらあったのではないか。ならば俺はその瞬間を描きたい。…調査を経てそんな創作動機が最終的に固まりました。
 さて次回より舞台は2011年に戻りまして『ご家老様の贋札』シナリオ執筆編です。打って変わってアホさ全開で。乞うご期待。(その12へ続く)


posted by 片羽國雄 at 01:41| Comment(0) | シナリオ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月17日

『ご家老様の贋札』執筆記(その10) 歴史編(7)〜福岡が静止する日〜

 福岡藩贋札事件、摘発と処分編です。
 福岡藩が贋札製造を目的とした通商局を立ち上げたのは明治3年(1870年)春で、実際に贋札が製造され行使されたのも同年3月から5月です。しかし明治政府側は明治2年(1869年)夏には内偵を開始していたとも言われており、福岡藩は通商局始動以前より何らかの贋札製造に向けた行動を起こしていてそれを早々に嗅ぎ付けられたのではないかと思われます。もしくは先行して贋札製造を行っていた諸藩の動向調査の一環だったのかも知れません。
 史談会の資料では何やら伊藤龍馬なる書生が福岡に潜入していて贋札製造の裏付けを取ったという一節があったのですが詳細は不明です(ちなみに伊藤龍馬という名前で検索してもゲームクリエイターやテニス選手しか出てきません…)。拙作『ご家老様の贋札』では福岡城内の贋札工房に潜入して出られなくなっていた刑部省の密偵として同名で登場させました。
 またこの当時日田県(今の大分県日田市)知事だった松方正義が、県内に流通する贋札の出所を福岡藩だと突き止めて中央に告発しています。松方正義は本件での適切な処置が大久保利通に認められて大蔵省入りし、後に総理大臣にまで登り詰めることになります。
 さて明治3年7月中旬。当時の検察機関・弾正台は大忠・渡邊昇と多数の捕吏を福岡に送り込み、摘発を開始します。wikipediaの写真の面構えがあまりに凄すぎるので拙作には同名で登場。新撰組とも斬り合った剣豪だったらしいです。
 手始めに贋札製造に携わった職人数十名が捕縛され、小倉藩庁へ送られました。小倉というのはもちろん現在の北九州市小倉なのですが、福岡藩を摘発するのに福岡藩内に捜査本部を置いては藩士の抵抗を受けるおそれがあったため近隣の藩に拠点を置いたというところでしょう。
 福岡の市中には歌舞音曲を停止し、商家は軒先に簾を降ろすようにと高札が立ちました。庶民は静かにしておけということですね。
 まず職人たちが捕らえられてしまったわけですが、この時責任者の矢野安雄小河愛四郎その他の藩士たちはどうしていたかというと、城内で顔を突き合わせて会議をしていました。互いに「私が責任者として名乗り出る」「いや私が」と言い合っていたようです。
 職人にせよ藩士にせよいっぺんに捕まえてしまえば良さそうなものですが、渡邊昇としては士分の者に時間………身辺整理の上、切腹する時間を与えたつもりだったようです。
 実際小河愛四郎は全ての責を負い切腹せんと介錯人も手配して準備を整えました。しかしこの最期の花道にも藩主から横槍が入ります。藩主が贋札製造に無関係である旨を説明すべく生きよとの命令でした。…このエピソードは拙作にも盛り込ませていただきました。
 こうして福岡藩側に自決者が出なかったもので渡邊昇も引き際を失い、厳しい処分を下さざるを得なくなりました。実際の処分決定は1年後の明治4年(1871年)7月でしたが矢野安雄・小河愛四郎ら5名の藩幹部は士籍剥奪の上、斬首となります。新政府側も家老クラスを無体に引っ立てることはなく順次東京へ召喚だったようで、矢野安雄が東京へ出頭したのも同年12月になってからでした。残務整理の時間を与えたのでしょうか。この5ヶ月間を矢野がどんな心境で過ごしたか、想像するだに胸が潰れそうです。…拙作ではこの辺7月の摘発時に全員連れて行かれてしまったことにしています。その方がわかりやすいから。
 藩主は藩知事免官の上、東京の屋敷で閉門処分(と言ってもその後ちゃんと華族になれました)。職人たちには罰金刑。そして福岡藩は廃藩となります。
 廃藩と聞いておやと思われる向きもあるかも知れません。同年に廃藩置県が行われ全国の藩が県になってしまったではないかと。
 実は全国的な、教科書に載っているところの廃藩置県は1871年7月14日のことなのですが、福岡藩は12日早い7月2日に贋札事件のペナルティとして廃藩となり、県と改称されて明治政府の直轄支配下に入りました。
 初代福岡県知事に任命されたのは有栖川宮熾仁親王。戊辰戦争時の東征大総督で、矢野安雄率いる福岡藩兵が警護した親王様です。この人選ならば福岡藩士の反発もなかろうという明治政府の判断でした。(その11に続く)
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現在の福岡城本丸。天守閣は江戸時代からなかったようです。
posted by 片羽國雄 at 16:32| Comment(0) | シナリオ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月16日

『ご家老様の贋札』執筆記(その9) 歴史編(6)〜みんなやってることだし〜

 福岡藩贋札事件を題材にした松本清張の短編小説『贋札つくり』(講談社文庫『増上寺刃傷』収録)では職人たちを1年以上工房に軟禁状態にして苦しめていましたが、実際のところどの程度の機密保持がなされていたかは怪しいところがあります。福岡・博多の街では藩庁の贋札製造が公然の秘密として語られていたようですし、人の出入りはあったのかも知れません。後の摘発の際に印刷系の職人の他に料理人も一緒に捕縛されていますので、職人たちは基本的に城内の宿舎で生活していて時折外出が許されたというあたりだったのではないかと思います。
 この点拙作では二ノ櫓にガチガチの軟禁状態で生活環境も劣悪で職人たちと藩士たちの間に軋轢が生じている…という描写にしました。その方が緊迫感が出て面白いのと、この状態を主人公に解決させたいという理由からです。
 贋札についてですが太政官札自体が従来の藩札と変わらぬ体裁と製法でしたので苦もなく作れてしまったようです。贋札製造を目的とする通商局の立ち上げは明治3年(1870年)の春とされていますが、福岡藩が近隣諸藩との交易に贋札を使用し、藩有の交易船・環瀛丸が各地の港で贋札を大盤振る舞いして問題化したのも同年3月から5月にかけてのことですので恐るべき急ピッチで大量の贋札が作られたことになります。…拙作では当初木版で贋札を刷っていて低品質に苦しみ、のちに銅版印刷を導入したという設定にしました。
 さて財政難だったのは何も福岡藩だけではなかったわけで、太政官札の偽造は方々の藩で行われていました。維新の雄・薩摩藩においてすらです。他の藩が皆やってる事だからウチがやっても大丈夫だろうという読みというか空気読みが福岡藩の幹部たちにもあったと思われます。
 しかし他藩にあって福岡藩にだけ欠落していたものがありました………明治政府へのコネクションです。
 1865年の乙丑の獄で処刑された加藤司書ら勤皇派藩士がもし生きていれば中央の薩長閥と太いパイプがあった筈なのです。うまくすれば薩長との共闘の賜物で福岡藩士が中央政府に要職を得ていたかも知れません。これならば贋札ごときいくら作ってもお咎めはなかった筈で福岡藩贋札事件は事件として成立しなかった(そして片羽はシナリオのネタがなくて困った)ことになります。
 しかし現実は藩内勤皇派の主力は壊滅、倒幕にも最後発の参戦となって他藩から冷遇され、維新はやり過ごしたものの孤立気味の藩を若い幹部たちが切り盛りしている有様です。
 折しも新政府には諸外国から貿易における偽金の混入に厳しい非難が寄せられており、通貨偽造防止に努力している姿勢を対外的に示す必要がありました。そんな時ふと西を見ると政府内にコネのない藩がせっせと贋札を作ってばら撒いているではありませんか。これはもうスケープゴート確定というもの。
というわけで次回は福岡藩贋札事件の摘発・処分編です。(その10に続く)
posted by 片羽國雄 at 13:07| Comment(0) | シナリオ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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