2012年09月17日

『ご家老様の贋札』執筆記(その10) 歴史編(7)〜福岡が静止する日〜

 福岡藩贋札事件、摘発と処分編です。
 福岡藩が贋札製造を目的とした通商局を立ち上げたのは明治3年(1870年)春で、実際に贋札が製造され行使されたのも同年3月から5月です。しかし明治政府側は明治2年(1869年)夏には内偵を開始していたとも言われており、福岡藩は通商局始動以前より何らかの贋札製造に向けた行動を起こしていてそれを早々に嗅ぎ付けられたのではないかと思われます。もしくは先行して贋札製造を行っていた諸藩の動向調査の一環だったのかも知れません。
 史談会の資料では何やら伊藤龍馬なる書生が福岡に潜入していて贋札製造の裏付けを取ったという一節があったのですが詳細は不明です(ちなみに伊藤龍馬という名前で検索してもゲームクリエイターやテニス選手しか出てきません…)。拙作『ご家老様の贋札』では福岡城内の贋札工房に潜入して出られなくなっていた刑部省の密偵として同名で登場させました。
 またこの当時日田県(今の大分県日田市)知事だった松方正義が、県内に流通する贋札の出所を福岡藩だと突き止めて中央に告発しています。松方正義は本件での適切な処置が大久保利通に認められて大蔵省入りし、後に総理大臣にまで登り詰めることになります。
 さて明治3年7月中旬。当時の検察機関・弾正台は大忠・渡邊昇と多数の捕吏を福岡に送り込み、摘発を開始します。wikipediaの写真の面構えがあまりに凄すぎるので拙作には同名で登場。新撰組とも斬り合った剣豪だったらしいです。
 手始めに贋札製造に携わった職人数十名が捕縛され、小倉藩庁へ送られました。小倉というのはもちろん現在の北九州市小倉なのですが、福岡藩を摘発するのに福岡藩内に捜査本部を置いては藩士の抵抗を受けるおそれがあったため近隣の藩に拠点を置いたというところでしょう。
 福岡の市中には歌舞音曲を停止し、商家は軒先に簾を降ろすようにと高札が立ちました。庶民は静かにしておけということですね。
 まず職人たちが捕らえられてしまったわけですが、この時責任者の矢野安雄小河愛四郎その他の藩士たちはどうしていたかというと、城内で顔を突き合わせて会議をしていました。互いに「私が責任者として名乗り出る」「いや私が」と言い合っていたようです。
 職人にせよ藩士にせよいっぺんに捕まえてしまえば良さそうなものですが、渡邊昇としては士分の者に時間………身辺整理の上、切腹する時間を与えたつもりだったようです。
 実際小河愛四郎は全ての責を負い切腹せんと介錯人も手配して準備を整えました。しかしこの最期の花道にも藩主から横槍が入ります。藩主が贋札製造に無関係である旨を説明すべく生きよとの命令でした。…このエピソードは拙作にも盛り込ませていただきました。
 こうして福岡藩側に自決者が出なかったもので渡邊昇も引き際を失い、厳しい処分を下さざるを得なくなりました。実際の処分決定は1年後の明治4年(1871年)7月でしたが矢野安雄・小河愛四郎ら5名の藩幹部は士籍剥奪の上、斬首となります。新政府側も家老クラスを無体に引っ立てることはなく順次東京へ召喚だったようで、矢野安雄が東京へ出頭したのも同年12月になってからでした。残務整理の時間を与えたのでしょうか。この5ヶ月間を矢野がどんな心境で過ごしたか、想像するだに胸が潰れそうです。…拙作ではこの辺7月の摘発時に全員連れて行かれてしまったことにしています。その方がわかりやすいから。
 藩主は藩知事免官の上、東京の屋敷で閉門処分(と言ってもその後ちゃんと華族になれました)。職人たちには罰金刑。そして福岡藩は廃藩となります。
 廃藩と聞いておやと思われる向きもあるかも知れません。同年に廃藩置県が行われ全国の藩が県になってしまったではないかと。
 実は全国的な、教科書に載っているところの廃藩置県は1871年7月14日のことなのですが、福岡藩は12日早い7月2日に贋札事件のペナルティとして廃藩となり、県と改称されて明治政府の直轄支配下に入りました。
 初代福岡県知事に任命されたのは有栖川宮熾仁親王。戊辰戦争時の東征大総督で、矢野安雄率いる福岡藩兵が警護した親王様です。この人選ならば福岡藩士の反発もなかろうという明治政府の判断でした。(その11に続く)
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現在の福岡城本丸。天守閣は江戸時代からなかったようです。


posted by 片羽國雄 at 16:32| Comment(0) | シナリオ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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