2012年09月16日

『ご家老様の贋札』執筆記(その9) 歴史編(6)〜みんなやってることだし〜

 福岡藩贋札事件を題材にした松本清張の短編小説『贋札つくり』(講談社文庫『増上寺刃傷』収録)では職人たちを1年以上工房に軟禁状態にして苦しめていましたが、実際のところどの程度の機密保持がなされていたかは怪しいところがあります。福岡・博多の街では藩庁の贋札製造が公然の秘密として語られていたようですし、人の出入りはあったのかも知れません。後の摘発の際に印刷系の職人の他に料理人も一緒に捕縛されていますので、職人たちは基本的に城内の宿舎で生活していて時折外出が許されたというあたりだったのではないかと思います。
 この点拙作では二ノ櫓にガチガチの軟禁状態で生活環境も劣悪で職人たちと藩士たちの間に軋轢が生じている…という描写にしました。その方が緊迫感が出て面白いのと、この状態を主人公に解決させたいという理由からです。
 贋札についてですが太政官札自体が従来の藩札と変わらぬ体裁と製法でしたので苦もなく作れてしまったようです。贋札製造を目的とする通商局の立ち上げは明治3年(1870年)の春とされていますが、福岡藩が近隣諸藩との交易に贋札を使用し、藩有の交易船・環瀛丸が各地の港で贋札を大盤振る舞いして問題化したのも同年3月から5月にかけてのことですので恐るべき急ピッチで大量の贋札が作られたことになります。…拙作では当初木版で贋札を刷っていて低品質に苦しみ、のちに銅版印刷を導入したという設定にしました。
 さて財政難だったのは何も福岡藩だけではなかったわけで、太政官札の偽造は方々の藩で行われていました。維新の雄・薩摩藩においてすらです。他の藩が皆やってる事だからウチがやっても大丈夫だろうという読みというか空気読みが福岡藩の幹部たちにもあったと思われます。
 しかし他藩にあって福岡藩にだけ欠落していたものがありました………明治政府へのコネクションです。
 1865年の乙丑の獄で処刑された加藤司書ら勤皇派藩士がもし生きていれば中央の薩長閥と太いパイプがあった筈なのです。うまくすれば薩長との共闘の賜物で福岡藩士が中央政府に要職を得ていたかも知れません。これならば贋札ごときいくら作ってもお咎めはなかった筈で福岡藩贋札事件は事件として成立しなかった(そして片羽はシナリオのネタがなくて困った)ことになります。
 しかし現実は藩内勤皇派の主力は壊滅、倒幕にも最後発の参戦となって他藩から冷遇され、維新はやり過ごしたものの孤立気味の藩を若い幹部たちが切り盛りしている有様です。
 折しも新政府には諸外国から貿易における偽金の混入に厳しい非難が寄せられており、通貨偽造防止に努力している姿勢を対外的に示す必要がありました。そんな時ふと西を見ると政府内にコネのない藩がせっせと贋札を作ってばら撒いているではありませんか。これはもうスケープゴート確定というもの。
というわけで次回は福岡藩贋札事件の摘発・処分編です。(その10に続く)
posted by 片羽國雄 at 13:07| Comment(0) | シナリオ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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