2012年09月07日

『ご家老様の贋札』執筆記(その7) 歴史編(4)〜明治は始まったけれど〜

 明治元年(1868年)2月。新たな家老・矢野安雄率いる筑前藩兵は他藩から冷遇されつつどうにか倒幕陣営に加わりました。与えられた任務は東征大総督・有栖川宮熾仁親王の警護。京都から東京まで警護任務の後、関東各所で勇戦(奥羽戦線には参戦しなかったようです)。秋には有栖川宮を京都へ送り届けて任を終え、年末の福岡へ帰還しました。これが筑前藩の戊辰戦争でした。
 片羽の調べた限り矢野安雄に関する記述はこの戦役と贋札事件に集中しており、父親の矢野梅庵の方が幕末史において知名度が高いようです。 
 矢野家は代々家老職の家柄で梅庵も家老でした。幕末には勤皇派で西郷隆盛や三条実美と親交がありましたが、前々回お話した1865年の勤皇派弾圧事件・乙丑の獄で謹慎処分となり失脚します。
 乙丑の獄における安雄の動向は掴めなかったのですがおそらく梅庵と路線を同じくし、しばし不遇の時期があったのではないかと思われます。
 それが1868年1月の鳥羽・伏見の戦いにおける薩長軍の圧勝を受けて筑前藩も倒幕に転向せざるを得なくなり勤皇派の矢野父子も復権、矢野安雄が家老に就任して出陣することとなったわけです。
 さて戊辰戦争から凱旋した矢野安雄。この頃30歳前後(片羽は生年月日すら把握できませんでした…)の若さでした。乙丑の獄で切腹となった勤皇派のリーダー・加藤司書が生きていれば40歳で頼もしく福岡を牽引したのでしょうが取り返しがつくわけもなく、矢野安雄はじめ経験不足の幹部たちで藩を切り盛りして行かねばなりません。
 明けて明治2年(1869年)。戊辰戦争は函館戦争で終結し、本格的に明治の世が始動します。6月には版籍奉還により藩主は知藩事に、筑前藩は福岡藩に名称が変わりました。11月には藩政改革で家老職は「参事」に改称されました。矢野安雄も大参事となります。
 破局………福岡藩贋札事件まで半年強。(その8に続く)


posted by 片羽國雄 at 03:15| Comment(0) | シナリオ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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