2012年08月30日

『ご家老様の贋札』執筆記(その5) 歴史編(2)〜ポセイドンの船首へ〜

 第一次長州征伐の停戦交渉において一定の成果を収めた福岡藩の勤王派は勢い付き藩の主流を占め、加藤司書も家老に就任します。しかし佐幕派の抵抗は強固で藩政はどこぞの国会のように空転。勤王派の過激な行動も藩主・黒田長溥の不興を買ってしまいます。
 黒田長溥というお殿様、西洋文明に明るく進取の気性に富んだ人物ではあったようですが、将軍家との血縁があり倒幕には賛同しかねる立場でした。そこへ膝元で勤皇派が台頭して騒ぎ散らかし、長州から三条実美という火中の栗まで拾ってきてしまったのだからたまりません。幕府に対して面目を立てねばならんと勤皇派の大弾圧に乗り出します。  
 これが慶応元年(1865年)夏〜秋の「乙丑の獄」(いっちゅうのごく)と呼ばれる事件です。加藤司書は切腹。その他勤皇派百数十名が処刑されました。大宰府の三条実美ら五卿も冷遇されます。
 勤皇派は完全沈黙。筑前は佐幕派の藩となり、しばし情勢を静観しておりましたが2年のうちに大政奉還・王政復古の大号令・戊辰戦争とみるみる徳川幕府は倒れていくではありませんか。まるで『ポセイドンアドベンチャー』の船首に向かった連中並みの道の誤りっぷりです。
 殿様は大慌てで佐幕派の家老たちを切腹させ残存の勤皇派を復権させます。そして薩長への恭順を示して戊辰戦争にも藩兵を出すのですが方々で「今更何を」と冷遇されるやら敵視されるやら散々でした。
 乙丑の獄と同時期に土佐の山内容堂武市半平太土佐勤皇党を弾圧しましたが、後には坂本龍馬後藤象二郎のラインに乗って大政奉還に一役買ったのと比べると、黒田長溥は情勢が倒幕に傾く可能性を完全に脳内から排除していたとしか思えません。
 さらに藩にとって不幸だったのは乙丑の獄で先見の明のあった勤皇派を粛清してしまい、転じては佐幕派の家老たちも死なせてしまったこと。経験豊富な実力者がおらず、薩長の新政府にコネクションもない、深刻な人材不足の状態で筑前藩は明治の世を迎えました………(その6へ続く)


posted by 片羽國雄 at 00:13| Comment(0) | シナリオ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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