2012年08月29日

『ご家老様の贋札』執筆記(その4) 歴史編(1)〜最初はイイ線行ってました〜

 久しぶりにシナリオ回。拙作『ご家老様の贋札』の題材である福岡藩贋札事件が起きたのは明治3年(1870年)ですが、少々時を遡って福岡藩=筑前藩がどのような幕末を送ったかについて。Wikipediaへのリンクだらけですがしばし歴史のお話です。
 多くの藩がそうであったように筑前藩も尊皇攘夷公武合体、転じては勤皇と佐幕の間で揺れ動きましたが、なんせ長州藩がご近所なので最初はイイ線行ってました。長州は文久3年(1863年)の八月十八日の政変、元治元年(1864年)7月の禁門の変を経て朝敵とされ8月には幕府による第一次長州征伐が始まります。この時筑前藩主・黒田長溥は家老・加藤司書を幕府軍の本営があった広島に派遣して事態の収拾に当たらせ、長州藩の恭順という形で停戦が実現します。
 この時点で長州藩の内部は佐幕派有利だったのですが、同年12月には高杉晋作がクーデターを起こし藩論を倒幕に統一。明けて慶応元年(1865年)1月には薩長同盟が成立、力を蓄え慶応2年(1866年)6月〜8月の第二次長州征伐で幕府軍を撃退し、これが倒幕運動として波及し慶応3年(1867年)の大政奉還につながります。
 そんな明治維新の主役・長州藩と我が筑前藩、共闘する機会は大いにありました。前述の第一次長州征伐の停戦交渉にあたっては加藤司書はじめ勤皇派の志士たちが敵対関係にあった薩長間の和解を取り持ち(坂本龍馬の薩長同盟よりも前ですよ、前!)、京を追われて長州に身を寄せていた尊皇攘夷派の拠所たる三条実美五卿の身柄を大宰府に預かることにしました。
 この流れなら薩長と共に倒幕に大きな役割を果たして勝ち組の仲間入り、新政府にも加藤司書が要職を得て薩長土肥ならぬ薩長土福なんて言われてたかも知れませんし、贋札事件なんか起きなかった(そして片羽はS1グランプリのネタに困った)筈です。しかし現実は………(その5に続く)


posted by 片羽國雄 at 03:39| Comment(0) | シナリオ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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